金秀グループのあらましKANEHIDE HISTORY

はじめに

グループは運命共同体

金秀グループは、創業者・呉屋秀信が個人企業金秀鉄工所の事業免許を取得した日、1947(昭和22)年5月25日を『グループ創業の日』としています。 世相が混沌とした終戦2年目のことで、呉屋秀信は弱冠19歳でした。

政治の動向は景気を浮沈させ、景気の好不調は企業経営に大きな影響を与えます。 金秀グループの場合は、太平洋戦争が創業の萌芽になりました。さらに、日本復帰では、本土大企業の市場参入を想定した対策に迫られ、沖縄海洋博が開催された時は、沖縄海洋博不況が原因で傘下企業が増えました。 傘下企業の経営基盤が弱く、乏しきを分かち合う時代もありましたが、『グループは一つの運命共同体』の理念のもとに、経営基盤整備のための組織改革も何回か断行しました。 呉屋創業者は、率先垂範して企業運営にあたり、役職員は創業者の人となりに心服して行動を共にし、3人で始めた鍛冶屋を従業員5000人余の企業集団に築き上げました。

へら

創業当時、呉屋秀信創業者が制作した「へら」

創業と守成

2002(平成14)年5月、創業55周年を機に、グループの舵取り役は呉屋秀信から呉屋守將に委譲されました。 当時、秀信は74歳。知力も体力も十分に持ち合わせていましたが、元気なうちの委譲が組織のためになる、という秀信の考えが実行されました。

古い中国の小話に『創業と守成いずれが難き』という問いがあります。答えは、いずれも難き、ということです。 呉屋守將会長は、これまでに培ったグローバルな感覚と先見性、洞察力、社員の能力を引き出す人材活用法で組織力を高め、グループの業容をさらに拡大・充実させました。 そして、創業70周年を迎えました。

変わらないもの『誠実 努力 奉仕』

金秀グループには変わらないものがあります。 それは、呉屋秀信創業者が自らの体験を通して覚った社訓『誠実 努力 奉仕』と、『人々に寄り添う』という創業の精神です。 この創業者の思いは、呉屋守將会長に受け継がれています。さらに、守將会長から次の世代へ引き渡されていくでしょう。この二つは、金秀グループの歩みと共にあり、いつの時代でも変わることはありません。

金秀グループの形成

創業者の生い立ち

創業者・呉屋秀信は、1928(昭和3)年4月10日、呉屋賀美・ツルの長男として、西原村字我謝で生まれました。賀美とツルは、秀信の下に、四男三女を授かっています。 賀美は村でも指折りの篤農家で、呉屋家の広い畑には雑草が一本も生えていない、と言われて、近隣の村からも視察者が訪れるほどでした。当然、賀美は、長男・秀信を農家の後継ぎにするつもりでいました。

 

1942(昭和17)年、国民学校を卒業した秀信は、沖縄県農事試験場(在西原村)に就職しました。しかし、仕事の内容が単調で秀信の気性に合いません。 数カ月勤めて退職し、後は、進むべき道を探しあぐねて、悶々とした日々を過ごしていました。

その時、父親・賀美が持ち込んだ朗報が、沖縄製糖(株)工員養成所への入所でした。賀美は、長男を農家の跡取りにすることを諦めていませんでしたが、皮肉なことに、この沖縄製糖工員養成所への入所が、秀信を農業から切り離す結果になりました。 まさに、『運命の岐路』でした。

道を拓いた沖縄製糖工員養成所

当時の沖縄製糖株式会社には、西原工場、高嶺工場、嘉手納工場、宮古工場の4工場があり、それぞれの工場に派遣する技師や工員を、那覇市の工員養成所で養成していました。 修業期間は2年で、英語、数学、国語などの一般教養科目と機械工作や旋盤などの技術習得の科目がありました。 向学心に燃えていた秀信には格好の学び舎で、秀信は、貪欲に知識を吸収しました。 特に、工作実技は得意中の得意で、技能の習得は周囲の誰よりも早くて群を抜いていました。 秀信は物づくりの才能に目覚め、好きこそ物の上手なれで、物づくりの才能はさらに磨かれていきました。 後年、この物づくりの才能が、秀信を企業人に導くことになります。

沖縄製糖工員養成所を修了して、沖縄製糖西原工場に勤務しました。 しかし、一年を待たずに沖縄全土は太平洋戦争の戦場となり、呉屋家は、避難の途中で米兵に捕まって捕虜となり、知念村の民間収容所に収容されました。

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工員養成所時代(前列の左端)

鍛冶屋を興す

1946(昭和21)年4月、西原村字我謝に帰村許可が下り、呉屋家も帰村しました。 艦砲射撃、空襲、地上戦、米軍の圧倒的物量攻撃によって沖縄全土は焦土と化していましたが、不幸中の幸いで、呉屋家の住宅は、庇の一部を損傷しただけで元のまま残っていました。 我謝は特に激戦地だっただけに、奇跡的なことでした。

帰村した秀信は、沖縄製糖工場工員養成所で習得した技術を活かして、村役場の産業課で働きました。産業課では農機具の製作も手掛けました。

郷土の復興には荒地の復旧が欠かせません。農機具は喫緊の必需品です。そのため、いくら作っても足りませんでした。琉球列島軍政府は、大量の農機具を日本から何度か輸入していますが、それでも足りません。 人々の求めに応えるためにはどうすればいいか。思いあぐねた末、秀信は、自ら農機具を作って人々の求めに応えることにしました。神の啓示でした。

自宅の庭の片隅に鍛冶場を作り、呉屋秀信、平良加明、玉那覇秀治の3人で、鍬、鎌、へら、鋤などの農機具を作りました。いくら作っても次から次へと注文があり、夜なべの作業も普通でした。 さらに求めに応じて、鍋、釜などの台所用品も作りました。

金秀鉄工所創業

3人で始めた鍛冶屋は次第に業容を拡大し、従業員20名ほどの鉄工所に成長していました。 秀信は、仕上げた製品を那覇の市場に運んで売ることも始めました。闇市場です。飛ぶように売れました。

当時、沖縄は米軍の統治下にあり、米軍政府は沖縄民政府を設置して住民を管理していました。 ところが、慢性的な物資不足から、政府の管理を潜って民間人同士の商取引が繁盛し、これがまた民衆のエネルギー源にもなっていました。闇市場・闇取引です。 そこで米軍政府は闇取引を摘発することにしました。

米軍政府は、1946(昭和21)年9月20日に、民間企業の事業免許制度を発令しました。 つまり、政府の許可を得ていない事業は闇取引業者として摘発する、ということです。

闇取引業者として摘発されれば廃業に追いこまれて、20数名の従業員は路頭に迷う。 秀信は事業免許を取得することにしました。幸いにも、沖縄民政府が石川市東恩納から知念村新里に移転していました。 秀信は、片道8Kmの距離を何度も通って、1947(昭和22)年5月25日、事業免許を取得しました。事業所の名前は金秀鉄工所。従業員は21名。秀信は19歳でした。

御殿下がりの生家

御殿下がりの生家

創業の礎

創業の礎

戦争の残骸が原料

西原村字我謝で呱呱(ここ)の声をあげた金秀鉄工所の事業は、農機具作りから始まって、鍋などのジュラルミン鋳物の日用品、精米機等の製作、発電事業と規模が広がりました。 沖縄を焦土にした砲弾や戦車、飛行機などの残骸が、農機具や鍋などの原料になりました。

いよいよ我謝の庭先の工場では手狭になり、1949(昭和24)年4月に、与那原町与那原に移転、さらに、1950(昭和25)年12月には那覇市美田区六班に移転しました。 総て業務拡張に伴う移転で、美田区移転を契機に、個人企業を合資会社に組織変更しました。 業務は、米軍納入用の鉄の鋳物製造のマンホールカバー、建築金物製作などと規模が拡張し、鋼材輸入販売も手掛けるようになりました。

躍進の地、那覇市壷川に移転。奇しくも…

世界の情勢は、東西冷戦に向かって動き出していました。1949(昭和24)年には中国共産党が中華人民共和国を建国し、翌年、1950(昭和25)年には朝鮮戦争が勃発して、共産主義が勢力を拡張していました。 これらに対抗して、米国は、沖縄を要塞地帯にするため恒久基地の建設を始めました。こうした世相と焦土からの復興を目指す気運が相まって、沖縄の建築業界は賑わっていました。

1955(昭和30)年12月、金秀鉄工所は、那覇市壷川に約600坪の土地を購入して移転しました。奇しくも、その場所は、創業者が工員養成所時代に2年間を過ごした寮の跡地でした。

各種鋼製建具の製作販売、シャッター販売などに加え、工場を拡張して、本格的に鉄骨工事を始めました。1960(昭和35)年には、北部製糖(株)工場、西原製糖(株)工場の鉄骨工事を施工しました。 さらに、商事部を設置して鋼材の輸入販売にも本腰を入れました。 当時、金秀鉄工所は自社使用分として鋼材を輸入し、懇意な同業者にのみ、先方の必要に応じて分けていましたが、折からの建築ブームでほかの同業者からも鋼材を求める声が相次ぎ、間口を広げる形で商事部が設置されました。

金秀鋼材と沖縄軽金属の設立

1961(昭和36)年3月30日、金秀鉄工所の商事部を独立させて、金秀鋼材株式会社を設立しました。沖縄の復興を一日も早く実現するために、建築業界全体の手助けをしよう、という考えが金秀鋼材設立の趣旨でした。

金秀鋼材の設立とともに、金秀鉄工所は、金秀鉄工株式会社に組織を変更しました。そしてこれを機に、金秀の文字が、金秀鉄工と金秀鋼材のロゴマークになりました。 金秀のもとに、金秀鉄工と金秀鋼材、車の両輪が揃いました。

さらに、日本復帰の前年、1971(昭和46)年6月18日には、現在の金秀アルミ工業(株)の前身、沖縄軽金属株式会社を設立しました。

沖縄の日本復帰を前に、世界的にも有名な米国のアルコア社が、沖縄にアルミ精錬会社を設立する計画を立てました。復帰後の日本市場への参入が目的です。 これに異を唱えた日本のアルミ精錬5社も、協力して沖縄にアルミ精錬会社を設立するために動きました。巷間ではアルミ戦争と呼ばれました。 こうした日米企業の動きの中で、沖縄が草刈場になることを危惧した創業者が、同業者に呼びかけて沖縄軽金属を設立しました。

海洋博とグループの結束

日本復帰(1972年5月15日)から3年後の1975(昭和50)年7月20日、沖縄国際海洋博覧会が、沖縄本島北部、本部半島で開幕しました。

金秀鉄工は、パビリオン等8カ所の鉄骨工事に参加して高い技術力を示しました。 が、その中の一つ、財団法人本部海洋博開発協会の物件、簡易宿泊施設『モトブ・シーサイドプラザ』に問題が発生しました。 資金が足りなくて支払が出来ない。負債総額は22億8800万円です。 そこで、主な債権者15社が、ホテル運営会社を設立することにしました。 当ホテルは沖縄県の肝いりでもあったので、県首脳が動き、当時、沖縄県工業連合会会長を務めていた呉屋創業者に社長就任を依頼してきました。 このままでは大規模な倒産です。創業者は、当座の運転資金として2億円を見積もり、その2億円の融資を金融機関に斡旋してくれるなら、という条件で『シーサイドプラザ運営株式会社』の社長を引き受けました。

ところが、海洋博の入場者数が当初予測よりも遥かに低くホテル運営が成り立ちません。80%を想定した稼働率は25%から30%。創業者は3カ月運営して、潔く決断し、破産宣告を受けることにしました。

問題は従業員への手当てと借り入れた2億円の返済です。従業員は殆どが本土出身者で、165名いました。従業員に迷惑はかけられません。沖縄軽金属に4700万円準備してもらい、退職金にしました。 さらに、金融機関から借り入れた2億円は、金秀鋼材がプレハブ資材を購入するという形で補填しました。金秀鉄工のピンチを、金秀鋼材と沖縄軽金属の協力で切り抜けました。

この苦境は、逆に、『金秀グループは一つの運命共同体』という金秀グループの今後のあり方を諭す大事な出来事になりました。

壺川社屋(1958年当時)

壺川社屋(1958年当時)

海洋博後遺症と増える傘下企業

沖縄経済の起爆剤になるはずの沖縄国際海洋博覧会でしたが、目論みは外れました。

ニクソンショックとオイルショックによる経済不況が影響して、当初450万人を見込んだ観客数は約350万に止まり、また、数多くの公共事業の殆どを本土業者が受注して、県内に落ちた金額はわずかなものでした。 県内の企業倒産件数を比較すると分かります、復帰の年の1972(昭和47)年には5件ほどだった企業倒産件数が、海洋博が開催された1975(昭和50)年には91件になり、海洋博が閉幕した1976(昭和51)年には152件と激増しています。 経済の不況は、その後もしばらく続きました。海洋博後遺症です。

金秀の取引先企業の中にも経営が行き詰った企業があり、創業者に救済を求めてきました。創業者は、乏しきを分かち合う覚悟で、これらの企業を受け入れました。 一時期は、グループ傘下企業が17社にもなりました。殆どが、経営基盤の脆弱な企業でした。

経営基盤の強化。『グループは一つの運命共同体』

『文化センターかねひで』と会報『かねひで』

弱い部分がその企業の実力――。創業者はこのような考えのもとに、グループ各社の経営基盤の強化に着手しました。

西原町字津花波の高台に、海洋博を当て込んで建築しながら開業することなく閉鎖になったホテルがありました。1980(昭和55)年、創業者は廃墟同然になったそのホテルを買い取り、グループの研修施設『文化センターかねひで』を建設することにしました。 1982(昭和57)年6月、『文化センターかねひで』は、総工費約3億円を投じて、グループ創業35周年に合わせて開所しました。

並行して、1981(昭和56)年1月1日にはグループの会報『かねひで』を創刊しました。 全従業員に、創業者の考えを周知させ、グループの向かう方向を明確に伝える貴重な情報誌になりました。

文化センターかねひで(1982年当時) 会報かねひで(創刊号)

社長会、委員会、そしてグループの社訓

1982(昭和57)年に開所した『文化センターかねひで』は、その後、規模を拡張しながら、都パレス、エリスリーナ西原ヒルズガーデンと変貌しますが、 その時代時代において、『グループは一つの運命共同体』を全従業員に浸透させる大切な場所になりました。

開所当初は、グループの特定の幹部職員を対象とした講演会が主でしたが、社長会が開催されるようになり、常設委員会が設置されて、各社で選出された委員が集まる場所になりました。 同じグループでありながら、今まで顔を合わせたことがない社員同士が顔を合わせることになり、自身が金秀グループの一員であることを実感するようになりました。 さらに、春季・秋季の幹部研修会やそのほかの研修会が開催されて、切磋琢磨の場所になりました。

1984(昭和59)年11月に開催した社長会では、『誠実 努力 奉仕』をグループの社訓にすることが決定されました。

『誠実 努力 奉仕』は、金秀鉄工が35周年から社訓として掲げ、金秀鋼材、沖縄軽金属などの数社もそれに倣っていましたが、これを機にグループ各社の社訓になり、グループ全従業員の行動の規範になりました。

都パレスになって大ホールが出来ると、待望のグループ新年会を開催しました。1987(昭和62)年1月10日、第1回の新年会が開催され、グループの全社員が一堂に会し、より一層、絆を深めるようになりました。

連結決算の実施

各社の財務内容を明らかにして、会社のレベルアップを計るため連結決算が実施されました。

幹部社員を集めて何度か研修会を開き、連結決算準備委員会を設置して研究を重ね、各社の決算期と勘定科目を統一するなどの作業を経て、1987(昭和62)年7月17日の幹部研修会で、第1回目の連結決算が発表されました。

1990(平成2)年からは、記者会見を開いて、新聞紙上を通して一般にも公表しました。連結決算は、県内企業では初めての実施であり、特に、金融機関からは高く評価されました。

グループ横断の分離・統合を実施

連結決算によって各社の本当の実力が浮き彫りにされました。『弱い部分が企業全体の実力』の考えのもと、経営基盤が脆弱な企業をどのように組織改革するか、が課題になりました。

当時の金秀グループは16社あり、そのうちの12社が建設関連の会社でした。これらの会社を事業内容ごとに分離・統合することになり、1988(昭和63)年1月に組織改善委員会を設置して検討を重ねました。 そして、その年の10月、グループ横断の分離・統合を実施しました。

16社の企業が11社(金秀事業協同組合は除く)に統合されました。この時の分離・統合によって、金秀鉄工は『金秀建設』に、沖縄軽金属は『金秀アルミ工業』に社名を変更しました。

なお、その後も、『金秀グループは一つの運命共同体』という理念の下に、会社間の横断的な統合が行われ、経営基盤の強化が計られました。

業容の拡大。『タウンプラザかねひで』誕生

金秀物産の食品事業部

1975(昭和50)年4月1日、金秀物産を設立しました。当時、冷凍食品等の卸を事業とする会社が、壷川の金秀鋼材社屋の一室を賃借していました。 しかし、海洋博不況で経営が行き詰まり、創業者に救済を求めてきました。創業者はその会社を引き受け、金秀物産を設立して事業を継承しました。 当然、従来の冷凍食品の卸だけでは経営は成り立ちません。金秀鋼材の儲け頭だったアルミサッシ事業を金秀物産に移行し、アルミサッシ事業で得た利益を、食品事業部に名称を変えた従来の食品流通事業に投入しました。

グループ各社の役員幹部からは、利幅の低い流通業に反対の声も出ましたが、創業者は、近いうちに流通業が事業の主流になる、と逆に役員幹部を説得しました。

食品事業部は様々な難問に直面しながら、その-都度、金秀鋼材をはじめとするグループ各社の支援を得て乗り越え、赤字部門ながら、1983(昭和58)年には、スーパーヤングの名称で、 小禄店、池端店、大嶺店、伊祖店のスーパーマーケット4店舗を運営していました。

金秀商事『タウンプラザかねひで』創業

そのような時、エコー商事株式会社から、全株式を譲渡したい、との申し入れが創業者にありました。エコー商事は4店舗のスーパーを運営していました。 財務内容を調べると2億円余の負債がありました。役員幹部からは、従来のスーパー4店舗の赤字事業にさらに4店舗の赤字運営のスーパーを加えるのか、と反対の声が上がりました。 が、創業者は、スケールメリットを優先して、エコー商事の全株式を取得することにしました。

1983(昭和58)年8月13日にエコー商事の全株式を取得し、10月20日、社名を『金秀商事』に変更しました。そして、同年11月1日、『タウンプラザかねひで』8店舗をスタートさせました。 金秀物産設立から8年が経過していました。

タウンプラザかねひで ロゴマーク

タウンプラザかねひで ロゴマーク

金秀商事旧社屋

金秀商事旧社屋

『鉄の金秀』から『スーパーのかねひで』へ

1989(平成1)3月期の金秀商事の決算は、売上高117億1千万円、経常利益2億8千万円。従業員762名、店舗数21店舗。金秀グループを代表する企業に成長しました。

従来の金秀グループは、鉄や鋼材のイメージが強く、『鉄の金秀』でしたが、平成に入ると『タウンプラザかねひで』の積極的な出店によってスーパーマーケットの存在が県民に広く認識されて、 それからは『スーパーのかねひで』が金秀のイメージになりました。昭和の金秀と平成の金秀の違いでもあります。

新リーダーのもと新たな挑戦

呉屋守將、グループの舵取り役を担う

2002(平成14)年5月25日、金秀グループは創業55周年を迎えました。 そして、この創業55周年を機に、グループの会長に呉屋守將が就任し、これまでグループを牽引してきた呉屋秀信会長は『創業者』の呼称になって、サイド支援にまわりました。

呉屋守將は、1948(昭和23)年9月19日、呉屋秀信・米子の長男として西原村字我謝で生まれました。 秀信と米子は、守將の下に、二男二女を授かっています。那覇高校から愛知県の名古屋工業大学建築学科に進み、卒業後は東京の大手ゼネコン会社に就職。 その後、渡米して、ジョージア州アトランタのジョージア大学大学院の環境デザイン科で研鑽を積み、修士課程を卒業しました。それから帰郷して、一旦、沖縄県庁に奉職しました。

父・秀信の企業人としての後姿を見て自身の処すべき道を定め、大学・大学院で専門の知識を身に付け、外の水を飲んで組織のあり方を学び、後継者としての器に磨きをかけていました。 そして、1986(昭和61)年、金秀鉄工株式会社に入社しました。

創業55周年バトンタッチ

創業55周年バトンタッチ

古人の求めたる所を求める

会長に就任した守將は、グループ各社の取締役、執行役員が一堂に会した前で、松尾芭蕉の言葉を引用して自身の決意を述べました。

『古人の跡を求めず。古人の求めたる所を求めよ』。

企業は、社会の動向に左右されるものであり、古い形に囚われていたら遅れる。 変えてはならないもの、従業員を大切にして人々に寄り添う企業を築き上げていくために、企業は、常に、柔軟にそして迅速に変化し対応しなければならない。 守將会長は、自らの並々ならぬ決意を、芭蕉の言葉を引用して表明しました。

ゼネコンに業容拡大

グループ牽引者としての守將会長の行動は、入社間もない頃から既に始まっていました。

入社した翌年の1987(昭和62)年5月30日、守將会長は金秀鉄工の那覇支店を開設し、10月1日には建設事業部と都市開発事業部をスタートさせて、自らは、建設事業部長に就任しました。 これが、ゼネコン事業に参入する第1歩で、以降、金秀鉄工の売上高の中で、建設関連の売上比重が増えていきました。

1988(昭和63)年10月のグループの整理・統合で、金秀鉄工は、創業以来の社名を金秀建設に変更しましたが、古人の跡に囚われず、社会の動きに迅速に対応する守將会長の考えが表れています。

今や、金秀建設は県内でも有数のゼネコン会社に成長しています。

連結経営と本社機能の充実

2000(平成12)年3月、金秀ビル東館が完成しました。そして、この完成を待って、当時、グループ会長代行の任にあった守將会長は、4月1日から統合本部をスタートさせました。

これは、各社の総務、財務を統合して金秀本社で集中管理するというもので、連結決算は出来上がった数字の結果で内容を分析することに対して、総務、財務部門の統合は、現在進行形の各社の数字をリアルに掌握することが出来ます。 当然、瞬時に各社の経営状況が分かり、問題にも即対応できます。 当初は、総務、財務は会社の要でありこれでは各社の組織力が弱まる、との反対の声もありましたが、むしろ、この連結経営で、金秀グループが一つの組織体になり、要の部分を金秀本社が担って、シンプルで分かり易い組織になりました。 資金面を含めて雑多なことは金秀本社が責任を持ち、各社は、売上達成に全力を尽くす、というこの連結経営手法は、各社の業務の効率化を引き上げるとともに、グループは一つの運命共同体という命題を具現化しました。

守將会長のグローバルな感覚と先見性が導き出した手法でした。当時の統合本部は、総務本部、財務本部、総合経営企画本部の3本部でスタートしました。

かねひで喜瀬カントリークラブ(Ocean No.5)

かねひで喜瀬カントリークラブ(Ocean No.5)

観光産業への参入。ホテルとゴルフ場

かねひで喜瀬カントリークラブは、旧称ブセナカントリークラブとして、2001(平成13)年10月8日にオープンしました。 創業60周年にあたる2007(平成19)年に『第75回日本プロゴルフ選手権大会』が開催され、本年5月11日から14日にかけて『第85回日本プロゴルフ選手権』が開催されました。

金秀シニアオープンは、2004(平成16)年から開催し、恒例の競技になりました。

ゴルフ場の経営は、1988(昭和63)年の久米島リゾート(株)まで遡ります。 当社は、久米島にゴルフ場を造って運営する目的で設立されましたが、その年の前年に制定されたリゾート法の影響で土地取得が難しくなり、諦めた経緯がありました。

かねひで喜瀬ビーチパレスは、大阪のゴルフ場運営会社が所有していたホテルですが、その会社が会社更生法の適用を受けることになり、譲り受けたものです。 競合しましたが、更生管財人をされた方が、地元を優先し、雇用を含め地元に役立っている企業を最優先する、との考えをお持ちで、金秀が選ばれました。 守將がグループ会長に就任した2002(平成14)年から交渉が始まり、翌2003(平成15)年6月6日、譲渡契約が締結されました。守將会長の就任を祝うようなありがたい話でした。

100周年への基盤づくり

グローバルな感性とチームワーク作りを求めた人材育成

創業者の考え方に、近くより遠きに及ぼす、という考え方があります。 社訓の『奉仕』も、社会に対して寄付やボランティアで奉仕する、という考え方ではなく、会社にとって最も身近な従業員とその家族の幸せを実現する、これが会社の奉仕であるという考え方です。 従業員とその家族が幸せになれば、自ずと、従業員のみなさんが社会に奉仕するという発想です。

守將会長の人材育成も、このような考え方で進められています。

金秀グループは、毎年、海外視察研修を実施しています。この幕開けが1990(平成2)年4月に金秀建設が実施した『ホノルル・マウイ ハワイ7日間の旅』でした。 18名が選抜されました。常務取締役の任にあった守將会長が、時の社長や専務を説得して実施した海外視察研修です。 そして、2000(平成12)年のオーストラリア視察からは金秀建設の企画に各社も加わり、2003(平成15)年から、グループ教育委員会の主催となって、各社から選抜された24名がハワイ視察に出かけました。 去年は、19名でミャンマー視察研修を実施しています。26年間で、延べ560名の社員が海外視察研修に選抜されたことになります。

今はグループ新入社員研修のカリキュラムとなっていますウォーカソンも、金秀建設の新入社員研修が始まりです。 1993(平成5)年4月、金秀建設では、新入社員研修の一環として『ウォークラリー』を実施しました。 そして、那覇の金秀ビルから恩納村のかねひで恩納マリンビューパレスまでの約37Kmを、新入社員13名が3チームに分かれて、お互いに励ましあって踏破しました。 5つの研修目的、チームワーク作り、健康管理、目標達成、チャレンジ精神、安全歩行を目的に行われた金秀建設の『ウォークラリー』が、1999(平成11)年からは、グループ新入社員研修の『ウォーカソン』となって現在に至っています。 新入社員同士が、約37Kmを協力し合って歩き、チームワークの大切さを学んでいます。 この研修も守將会長が先頭に立って始めた研修です。

新入社員ウォーカソン

新入社員ウォーカソン

W20(ウィメンズトゥエンティ)の取組み

守將会長は、2007(平成19)年、創業60周年を終えた秋の幹部研修会で、女性管理職の登用について言及しました。 『金秀グループには男女比で21%の女性社員が在籍しているが、女性管理職の登用率は4%しかいない。 比率的には、20%の女性管理職がいてもおかしくない。近い将来、女性が活躍する時代が来る、あるいは、来なければいけないと私は思います』と講話のなかで述べました。 そして、その後、女性社員を対象にした研修を積極的に実施し、女性社員の意識高揚を図りました。その結果、創業65周年には女性管理職比率は7%にまで上がりました。 2013(平成25)年には、経営目標の柱の一つにW20(ウィメンズトゥエンティ)を掲げ、さらに積極的に取り組みました。

結果、2016(平成28)年4月には、女性管理職比率20%を達成しました。取り組みの当初は、女性自身が、一過性のパフォーマンスと勘違いして冷やかに反応していましたが、 いろいろな研修を通してトップの信念に触れ、それからは、自身の能力開発に真剣に取り組むようになりました。 その間、2014(平成26)年4月には、グループで最初の女性社長も誕生しました。

試練を超えて

順風満帆な時ばかりではないのが企業経営の常です。グループ創業55周年の年の2002(平成14)年、金秀アルミ工業が、景気の低迷から経営不振に陥り、人員削減が避けられない状態になりました。 守將会長にとっては、グループの舵取り役を担った直後の出来事です。節目のめでたい年でしたが、希望退職者を募って75名に退職していただき、22名の社員には、グループ各社の協力もとグループ間異動をお願いして、 金秀アルミ工業の窮地を乗り超えました。

創業60周年に当たる2007(平成19)年は、連結決算で18億円の純損失を計上する試練の年になりました。
三つの原因がありました。一つは、耐震偽装問題が契機になった建築基準法等の改正と、アメリカのサブプライムローン問題による景気の低迷が影響して、金秀建設、金秀鋼材、金秀アルミ工業が大幅な売上減に転じたこと。 二つは、喜瀬別邸ホテル&スパの開業初期投資。そして、金秀バイオの不用工場の閉鎖に伴う特別損失。 この三つが原因になって、連結決算始まって以来の大きな損失計上になりました。 守將会長は、この難局に当り、これまでの慣行に囚われないいくつかの改革を断行しました。改革には一部の痛みも伴いましたが、各社の総力を挙げた努力で、金秀グループは苦境を脱することが出来ました。

翌年、2008(平成20)年度の連結決算は、改革の努力が功を奏して増収増益となり、経常利益は前期比159.7%を記録しました。

百年企業を目指し、働きがいNO1企業へ

金秀グループは2012(平成24)年、創業65周年を機に『百年企業を目指す』というメッセージを内外に発信しました。 『百年』とは計数としての100ではなく、象徴的な意味を込めた百年、つまり、未来永劫に続く、という意味の百年です。

2016(平成28)年4月から、『金秀グループ新人事制度』が導入されました。 これは、社員自らが解決まで考えて提案し実践する、という自立した社員の輩出を求めた人材育成の一環としての人事制度で、グループ各社の担当者によるプロジェクトチームで、 1年余の期間をかけて調査研究を重ねて実施にこぎつけました。 これで、長年の懸案であった人事制度の見える化も実現されました。百年企業に向けて人財育成こそが最も大切、という考え方に基づいた施策です。

2016(平成28)年4月には3ヵ年計画を策定して、2つの中期ビジョンを掲げました。

1、働きがいNO1企業になる(従業員満足度)

2、ファーストコール企業になる(顧客満足度)

この2つの中期ビジョンを達成するために、グループ各社、新たな取組みを始めました。

「人と人の暮らしに寄り添う百年企業へ」65周年新聞広告(30段)

「人と人の暮らしに寄り添う百年企業へ」65周年新聞広告(30段)

現在のグループの陣容

2017(平成29)年4月1日時点の金秀グループの陣容は、9社1事業協同組合です。

金秀建設株式会社はグループ創業の会社です。1947(昭和22)5月25日に創業者・呉屋秀信の個人企業金秀鉄工所として創業しました。 そして、1961(昭和36)年には金秀鉄工株式会社に組織変更、1988(昭和63)年から『金秀建設』になりました。

金秀鋼材株式会社は、1961(昭和36)年に創業しました。日本復帰の前年、1971(昭和46)年に、復帰で予測される市場激変に対する防衛策として資産と事業を分離させ、 新会社・金秀鋼材を設立して事業を継承し、従来の金秀鋼材は金秀不動産に社名を変更しました。

金秀アルミ工業株式会社は、これも日本復帰の前年、1971(昭和46)年に『沖縄軽金属株式会社』として設立しました。1988(昭和63)年、金秀アルミ工業に社名を変更しました。

金秀商事株式会社は、1964(昭和39)年にエコー観光株式会社の社名で設立した会社で、1983(昭和58)年にグループ傘下になり、『金秀商事』として『タウンプラザかねひで』8店舗でスタートしました。

金秀バイオ株式会社は、1988(昭和63)年に『株式会社沖縄発酵化学』として設立した会社で、1991(平成3)年にグループ傘下となり、2006(平成18)年に金秀バイオに社名を変更しました。

金秀興産株式会社の前身は、1960(昭和35)年に設立した第一製糖株式会社で、1993(平成5)年の製糖業界再編によって製糖事業を閉鎖し、1999(平成11)年、社名を第一産業に変えてグループ傘下となりました。 さらに、2007(平成19)年、金秀興産に社名を変更しました。

金秀鉄工株式会社は、2008(平成20)年に、金秀建設から分離して設立しました。

沖縄ピーシー株式会社は、1996(平成8)年、沖縄の建設関連業者20社で設立した会社で、2012(平成24)年からグループ傘下になりました。

株式会社金秀本社は、旧金秀鋼材の資産を継承して、前述のように1971(昭和46)年に金秀不動産に社名を変更し、1983(昭和58)年から、金秀本社になりました。

金秀事業協同組合は、1978(昭和53)年に設立しました。

以上の9社1事業協同組合で、2017(平成29)年3月期において、従業員約5,000名、売上高は1,055億200万円になりました。

この陣容で、これからも、時代の変化に迅速に対応しながら、着実に、100年企業を目指して歩み続けます。

金秀ビル

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